ノーサイドストーリー

大正12年春に秋田県のラグビーは始まった、と当協会資料に記録が残っている。
秋田運動倶楽部、秋田鉱山専門学校がその魁だ。
偶然にも両者でほぼ同時にラグビーが始まった。
当時の秋田県出身者がラグビーを経験した後に帰郷し、県内で指導したことにより、秋田の青年層の間でラグビーの機運が広まった、と伺った。
同年8月、慶應大学より指導者を招聘し、ラグビーの普及が本格化。
9月1日、関東大震災発生。
死者行方不明者約10万人、全半壊・焼失家屋約30万戸。
平成の東日本大震災とは比較にもならない、未曾有の大災害である。
9月14日 秋田市楢山グラウンド。
秋田鉱山専門学校対秋田運動倶楽部23-0で、秋田鉱専勝利。
関東大震災発生直後、首都圏近郊が甚だしく被災し、国家機能がマヒしていたにもかかわらず、秋田では何故ラグビーの試合をしていたのか。
サプライチェーンが未発達で、首都圏経済の停滞が地方に影響しなかったせいか。
現代より放送網が整備されておらず、首都圏の大災害のことは、地方には伝わっていなかったことも一因か。
偶然にしろ、日本の政治経済が混迷を極めていたさなかに、本県で独自にラグビーが始まり、指導者を招き、普及に努めた先人の功績に思いをいたすとき、改めてその心意気に敬意を表したい。

現代に生きる我々が、ラグビーに携わることになったきっかけは、皆それぞれ違うはずである。
しかし、ラグビーに出会わなければ知り合うことがなかった者同士が今、100年の歴史の延長線上を、ともに歩んでいる。
これもまた偶然である。
今、皆で歴史を振り返り、未来を展望することは、次の100年への布石の第一歩となることは間違いなく、決して無駄ではない。
秋田県ラグビーの黎明期。
「ラグビー王国秋田」の名をほしいままにした時代。
その後の秋田県ラグビーの変遷。
関係の皆さんのご協力をいただきながら、秋田県ラグビーの足跡を辿り、明日を見つめることで、本欄に100年誌としての厚みを持たせ、魂を込めていきたい。

秋田県ラグビーフットボール協会
理事長 秋山 渉